むかしむかし、ごく普通の人々は衣食住の基本を確保するために、余暇のない暮らしをしておりました。なにしろ、スーパーもコンビニもないので「食べる」だけでも、田畑の耕作・米野菜の種まき・収穫・火おこし・煮炊き、です。積水ハウスもないので、住居の建設維持も大変です。コンサルなどの職もなく、ひたすら肉体を使って働いておりました。
それから幾歳月、わざわざ自分でしなくてもあらゆることは、お金と引き替えに誰かがやってくれる便利な時代になりました。普通の人でも時間の余裕が持てるようになったのです。それなのになぜ、子どもたちは日本という狭い国土のなかで争うように、毎日毎日日本の学校を受験するための「入試対策」なる苦役を続けているのでしょう。それは、子どもたちの貴重な「今」という時間の余裕を奪ってまで行うべき大切なものですか。「入試対策」が役に立っているお子さんは、日本全国で10000人くらいではないですか?他の子どもたちも、同様に週末も放課後も毎日それをしないといけないのですか。「入試対策」は10000人に勝手にやらせて(すると「入試対策」は必然的にもっと中身のあるものに深化する)、他の人はそれぞれ違うことをするという選択はないのですか?
集団が変化するときは、かねてから正しいとわかっていた変化が起きる。セス・ゴーディン